ある者はこの物語を嗤うだろう。ある者は目を背けるだろう。だが私は確信する。これは、一人の少女が抱いた淫らで切実な祈りの記録である。
すべては「正しさ」に押し潰されたひとつの心から始まった。教室の窓際、埃の匂いがわずかに漂う席。その上に残されたパンの袋と女の匂い。
それを感じたときから、少女の世界は音を立てて軋み始める。「仕返し」という言葉に、欲望という毒が混じるのはいつも唐突で、しかし必然だ。
その毒がやがて、自分自身をも侵してゆくとは知らずに。

無田川先生の制裁!!クズ陰キャ メスブタちゃん
少女の名は、相内。
髪は前髪で額を隠し、背筋を伸ばすことにも自信が持てない。だが彼女は、教室で「無視される側」の日常を耐えるかわりに、「見る者」へと転生した。
スマートフォンという小さな瞳が彼女の執着と欲望を育てる苗床となり、ギャルのショーコという存在を可視化された肉の標本へと変えてゆく。
撮ること。晒すこと。
自らの無力な心を補うための小さな暴力。そのすべては、結局愛の不器用な裏返しだったのかもしれない。
だが、欲望は常に等価交換を要求する。やがて視線は跳ね返る。光の当たらない場所に棲むものは、光に晒されたとき、もっとも脆くもっとも淫らに崩れるのだ。
作品名は制裁!!クズ陰キャ メスブタちゃん、作者名は無田川先生。
淫辱の背徳美 吊るされた処女の供儀
公開処刑。
その語は残酷だが、この物語においては儀式であり赦しの装置でもある。
少女は目を覆われ拘束され、視界を奪われたまま快楽に堕ちる。
複数の男たち「セフレ軍団」と表現される彼ら淫靡の手によって、彼女はひとつずつ現実との接続を断たれてゆく。
拘束された手足は、もはや抵抗ではなく悦びの型を示す装飾にすぎない。処女は、この世界においては純潔ではなく供物の証明書。辱めは羞恥ではなく、望まぬ愛撫を通した自己肯定の模倣だ。
ここにあるのは、暴力の仮面を被った徹底的な受容と変容のプロセス。相内という少女は、このときはじめて自らが女であるという実感に触れる。
倒錯とは、誰かを支配することではない。自分自身を逸脱させる快楽なのだ。
ギャルと地味子 支配と服従の倒錯的再編が身近にあってほしいいじめられっこといじめっ子のエロきゅん
もっとも印象的だったのは、いじめっ子であるショーコのかわいさが、この儀式の中でふと立ち上がる瞬間だった。
蹂躙のなかで交差する、わずかなまなざし。それはいじめる者が実は誰よりも無垢であるという、皮肉で甘やかな真実だったのかもしれない。
そして相内の側もまた地味な少女であるがゆえに、「自分はこんなはずじゃなかった」という哀れで浅ましい欲を露呈する。
だがそれすらも私たちにはどこか切なく身近に感じられてしまうのだ。それがこの物語の凄みであり、痛みと快楽の境界線に生まれる、身近にあってほしいエロきゅん”の所在である。
これは暴力の話ではなく「赦し」の話である
この作品を表層だけで捉えれば、ただの報復劇であり凌辱譚にすぎない。だが私はこの作品を一種の「赦し」の物語として読みたい。
社会の片隅に追いやられた少女が、自らの手で他者を裁きそして裁かれることで、かえって存在を認められるという構造。
その倒錯を、ただ否定することは簡単だ。だが、そのなかに宿る哀しみと愛しさを見つめるとき、私たちはねじれた人の美に触れてしまうのだ。
快楽とは、痛みを通じてしか本物にならない。赦しとは、暴力と呼ばれることもある。そのことを、この小さな地味な少女は、身をもって私たちに教えてくれたのだ。